非完備な世界を生きる力――AI時代の価値判断|大学院長・乾孝治
私の専門である金融工学には、ブラック・ショールズ式という有名な公式がある。株式オプションの価格を算出するこの式が唯一の答えを導けるのは、市場価格の振る舞いについて数学的に厳密な前提が置かれているからだ。これをより現実に近い複雑な仮定へと緩めた途端、答えは一つに定まらなくなり、場合によっては解の存在すら危うくなる。自然科学も同じだ。ロケットが月に到達できるのは、物理法則という盤石な前提があり、その現象において支配的だからである。扱う問題の前提を「完備(complete)」にできるかどうかが、解の一意性にとって重要な意味を持つ。
しかし、ビジネスや芸術は、そもそも前提が定まっていない、いわば「非完備(incomplete)」な領域である。あるいは、その前提を広げること自体が目的でもある。これまで誰も「全体」もしくは「ドメイン」に含めていなかったものを取り込むこと、すなわち完備化こそが、イノベーションの正体であり、新しい作品が生まれる瞬間でもある。
つまり、「非完備」であることは欠陥ではなく、創造の源泉であると言えるだろう。研究もまた同じである。データの背後にある違和感、モデル化の過程で誤差として無視してきた部分、めったに起こらない想定外の事象。そうしたささいなことを理論に組み込むことが、研究のフロンティア拡大に寄与してきた。
さて、私は生成AIを使うとき、この構造をいや応なく意識させられる。AIを使う目的は、多くの場合、答えの定まらない問題に対して何らかの解を得ることにある。AIは問いに対して流ちょうに答えを返す。しかし、その問い自体が適切かどうか、何のために答えを出すのかを、AIは決められない。前提を変えながらAIに指示を与えれば、さまざまな答えを示してくれる。最適な解が欲しいとしても、複雑な問題の前提を「完備」な条件として与えることは極めて難しい。曖昧さが残る中で、AIが生成する多様な選択肢の中から、自分が最適であると思える一つの解を選び取る。そのとき、よりどころになるのは、「価値」による判断である。
では、改めて、この時代のビジネスリーダーとは何者か。問題をうまく解く人でも、ビジョンを高らかに掲げる人でもない。その手前にある「何を価値とするか」という根拠を、自覚的に持てる人ではないか。価値が定まって初めて、何を目指すかが見え、どの問いを解くべきかが決まる。
そうしたリーダーを社会へ輩出するために、大学は何をすべきか。知識やスキルを伝えることは、AIにもできる時代だ。大学にしかできないのは、価値の問いと正面から向き合う経験を学生に積ませること、そして非完備な世界で自ら問いを立てて未来を選び取る力を育てることではないだろうか。国際化や学際化の真意もそこにあると思う。(総合数理学部教授)
明治大学広報第809号(2026年5月1日発行)掲載
