Meiji NOW 明治とつながる 今をつたえる。

スペシャル・インタビュー
2018.04.23

【第1回】ヴィッセル神戸 ルーカス・ポドルスキ選手専属通訳 村上範和さんにインタビュー│明治大学

学生インタビュースポーツ

specialinterview05_1

2005年に法学部を卒業後、現在はヴィッセル神戸に所属し、ルーカス・ポドルスキ選手の専属通訳をされている村上範和さん。以前はサッカー選手としてシンガポールや南アフリカなどさまざまな国を渡り、特に南アフリカでは、日本人初のサッカー選手として活躍されました。そんな村上さんに、同じ法学部に在籍していた鈴木拓也さんから、選手時代のことや、現在のお仕事である通訳についてインタビューしてもらいました。
今回のインタビュアー鈴木拓也さん(2018年法学部卒)

specialinterview05_2

  • 明大スポーツ新聞部の元編集長(当時はサッカー部を担当)。
  • 小学校1年生から高校卒業までサッカーをやっていた。
  • 村上さんには特に「通訳として選手の意図を伝える際に意識していること」を聞いてみたい。

村上さんとサッカーとの出会い

鈴木拓也さん(以下:鈴木) 村上さんと言えばサッカーが代名詞ですが、サッカーを始めたきっかけと、明治大学入学までのサッカーの経験について教えてください。

村上範和さん(以下:村上) サッカーを始めたのは、7歳のころでした。私の幼なじみが幼稚園のころからサッカーをやっていたことと、サッカーのユニフォームがかっこいいと思ったことがきっかけです。中学生時代の一部を、父の仕事の関係で中国の北京で送り、そこでもサッカーをずっと続けていました。中学生のうちに日本に帰ってきて、今はもう存在しませんが、横浜フリューゲルス(※1999年に横浜マリノスと合併)というチームに所属していました。知っていますか?

鈴木 はい、高校生の時にサッカーをやっていたので、知っています。

村上 そうなのですね。鈴木さんは何年生まれですか?

鈴木 1995年生まれです。Jリーグが始まって数年経ったころです(※Jリーグは1993年から開催)。

村上 横浜フリューゲルスと横浜マリノスが合併する少し前ですね。

鈴木 そうですね。

村上 プロのサッカー選手になりたいと考えていましたが、結局プロにはなれませんでした。もともと父には学業とサッカーの両立を勧められていて、大学に行くことを検討していましたが、そんな時にたまたま明治大学のお話を頂いたんです。推薦入試を受けるために、テストも兼ねてキャンプに連れて行ってもらって、ひとまずそこでOKをもらいました。また、以前放送していた明治大学の体育会サッカー部の特集を観ていたので、明治大学のことは頭にありました。実家から近かったこともあり、縁あって入学することになりました。

specialinterview05_3

在学中に、ブラジルへサッカー留学

鈴木 明治大学に入学されて、3年次にはブラジルでプレーを目指して留学されていましたが、ブラジルでのプレーを目指した経緯と、その理由があれば教えてください。

村上 明治大学に入ったときから、ずっとヨーロッパでサッカーをすることにあこがれていたため、イタリア語の授業を取っていました。2年次の終わりに骨折をして、3カ月くらいサッカーができない時期があり、その時にチームメイトが海外遠征に行ったり、選抜に選ばれたり、同級生がJリーグで活躍しているのを見て、もやもやしていて、そこで海外に行きたいという気持ちがさらに強まりました。いろいろ周囲に相談もしていましたが、そうしている内に、ヨーロッパのチームの外国人選手の登録枠が埋まってしまったんです。

鈴木 そうだったのですか。

村上 一瞬「どうしよう」と思いましたが、心の中ではすでに海外に行くと決めていました。そんな時に父の知り合いの方がブラジルで受け入れてくれるという話をくださって。私はブラジルについて詳しく知りませんでしたが、海外でサッカーをするという気持ちだけは強かったので、そのままブラジルに渡りました。

鈴木 ブラジルではどのようなことをされていましたか?

村上 私が練習をさせてもらったクラブがたまたまブラジルのトップリーグのクラブで、当時20歳だったので、ユースとプロの間のカテゴリに入りました。ユース専用のスタジアムに寮があって、ちょうど明治の寮みたいな感じです。そこで生活をしていました。チームの監督が、16歳の時にお世話になった横浜フリューゲルスのトップチームの監督だった方で、当時私もトップチームで練習させてもらっていたり、試合もたまに出してもらったりしていたため、ブラジルでもすごく良くしてもらいました。

鈴木 そうだったのですね。

村上 その縁もあって、新シーズンのキャンプに連れて行ってもらえることになりましたが、ブラジルに滞在するためのビザが更新できないと言われてしまったんです。当時のブラジルは貨幣が変わるなど、いろいろなことがあって、そのために更新できなかったようです。

結局、もうブラジルにはいられないので、次を目指そうということになりました。ブラジルでは良い人々に恵まれて、その人たちがヨーロッパ周辺のサッカーチームを探して、コンタクトを取ってくれたんです。また、日本への直帰のチケットと、ヨーロッパを経由して帰るチケットが、そう値段が変わらなかったこともあって、「どうせならチャレンジしていこう」と思い、ヨーロッパへ向かいました。

鈴木 現役を引退されるまでに約15年間国外でプレーされていましたが、一番うれしかったエピソードと、一番苦労したエピソードをそれぞれ教えてください。

村上 何かを成し遂げたという意味でのうれしかったポイントというのは、あるのかなあ……。サッカーはずっと楽しいし、生活と密着しているので、一番、というのは難しいですね。 あえて言うなら、シンガポールで所属していたシンガポール・アームド・フォーシズFC(現在の名前はウォリアーズFC)ではリーグ・カップ共に優勝経験があるので、うれしかったです。優勝しても翌日からは次の準備に入る分、みんなでわーっと盛り上がる、その瞬間が一番うれしいです。

鈴木 一番苦労したエピソードはありますか?

村上 所属するチームが無くて探している間、個人以外での練習ができず苦労しました。チームに所属してからは南アフリカやその他いろいろな国に行きましたが、現地の人とも仲良くなれたので、生活に関する苦労などはあまりありませんでした。結婚したのも早かったので、家族がそばにいてくれたことも大きいです。

specialinterview05_4

初の日本人プレーヤーとして南アフリカへ!

鈴木 南アフリカでは初の日本人プレーヤーとして活躍されていましたが、チームメイトと関係を築く上で、工夫したことや意識したことはありますか?

村上 初の日本人プレーヤーということで、お互いのことが分からなかったため、まずは私が彼らについて知る過程で、彼らが私のことを知ってくれるんじゃないかと考えました。彼らと同じものを食べたり、やっていることを真似したり、常に輪の中に飛び込んでいくことを心掛けていました。あとは、とにかく相手に質問することで、言葉のキャッチボールが始まって、言語力が不十分でも、分からないなりに相手を知ろうとしていました。結局サッカーも、人間関係なので。

鈴木 南アフリカは公用語が多いと聞きましたが、コミュニケーションは英語で取れるのですか?

村上 公用語は主に7つあって、英語と、アフリカ―ンス語という古いオランダ語のような言語と、それ以外には部族語がありますが、基本的にはみんな英語を使うことが多いです。 2年目にいたレイモンドビル・ゴールデン・アローズというチームがあるエリアは、都会だけど部族色の強いところで、ズールー人という部族がいました。チームにも多く所属していて、彼らはズールー語という言語で話しますが、それが分からないと、何となく疎外感があるんです。もちろんみんな英語は分かりますが、ズールー語で話していることもあったため、私も少し覚えようと思って勉強しましたが、すごく難しかったですね(笑)。

鈴木 (笑)。2010年にはワールドカップ南アフリカ大会がありましたが、現地でワールドカップを経験されていかがでしたか?

村上 2002年のワールドカップは日本で行われていましたが、ある意味“外から”見ていたような印象でした。2010年の南アフリカ大会では、普段自分がプレーしているスタジアムで日本代表の試合があったり、自分のチームメイトが代表選手を務めていたりと、“内側から”ワールドカップを見ることができたように感じています。

南アフリカでは人種差別という問題が根強く残っていたり、治安が悪くて危険だったりしますが、ワールドカップの前後はそういうものが少し取り払われたようにも思えました。絶対に歩くなと言われているところにもたくさん人が歩いていて、最初は違和感がありましたが、それが本来の姿なのかなとも思いましたし、みんなで一つのスポーツを応援して、熱狂して、そんな時にアフリカでプレーできたということは、とんでもない財産だと思っています。

鈴木 そうだったのですね。村上さんはシンガポールをはじめとして、南アフリカに渡るなど、さまざまな国でプレーをされてきましたが、海外での生活にはどのようになじんでいかれましたか?

村上 集団になじむのは得意なので、逆になじみすぎて、すぐにかぶれてしまうんですよ(笑)。まずは、やってみる。現地の人たちがやっていることや、話している言葉を使ってみる。相手のスタイルに合わせて、いろいろなことを真似していると「だからこういうことをするのだな」とか「こういうものを食べているからこうなるのだな」というのを知ることができます。文化的な背景や歴史も、調べてみればすぐ分かるじゃないですか。そういったことを意識していれば、なじむのも早いし、自分も楽しいですよ。

specialinterview05_5

選手引退の決意と通訳への就任

鈴木 サッカー選手としての生活に一区切りつけて、現役を引退される決め手となったことはありますか?

村上 サッカーが好きなので、辞めるというイメージはあまりありませんでした。当時私も選手としては良い年齢で、周囲が引退し始めるのを見ながら「みんなはどんなタイミングで引退しているのだろう」と思っていました。私は引退の原因となるような大きなケガなんてほとんどなくて。それこそ大学にいた2002年に骨折をしましたが、それ以降はそのまま選手をやれていました。所属できるチームがなくなって、どうしようもないというケースもその時点ではありませんでした。

鈴木 なるほど。

村上 じゃあ、どうやって一区切りつけようかと、自分でも去年の今ぐらいに考えていました。あるとすれば、プレーをする以上に楽しいことが見つかること。ちょうどその時に選手兼コーチをやっていたので、コーチングしたり、トレーニングメニューを作ったりしていて、それらがおもしろいなと思う気持ちは何となく頭にありましたが、それでも選手を辞めようとは思っていませんでした。

そうしていたら、ルーカス・ポドルスキ選手の通訳をやらないかという話をいただきました。最初は2017年の1月にお話をいただきましたが、私がコーチをやっているのを理由に指導を受けに来てくれていた選手もいたので、中度半端ではやめられなくて、タイミングが合わずに断りました。そうしていたら、3月にもう一度お話をいただきました。ドイツ代表の引退試合があるとのことで、その時私はドイツに滞在していたので、ポドルスキ選手と顔合わせをすることになりました。同じタイミングでシーズンが終わるから、こんなに面白い話は無いし、「じゃあ、とりあえずはスパイクを置こう」という気持ちになり、引退を決意しました。

鈴木 そうだったのですね。

村上 シーズン最後の試合は寂しかったけど、逆に言えば、自分で最後の試合だと分かって辞められる幸せがありました。 もちろんヨーロッパに行っても、時間があればサッカーをするし、プロサッカー選手としての生活が中心であったものが、通訳になったというだけで。そういう意識で常にチームの選手とは一緒にいて、試合中もベンチに座らせてもらって、選手と同じような生活をしているので、いきなりサッカーが自分の生活から無くなったという感じはありません。

そういった形で通訳をやらせてもらえて、それがサッカーをやっている以上に面白いことでした。また、長いこと海外にいて、日本に帰って来たいという思いもあったため、2年に一度くらい帰国して、流行などをアップデートして、また戻ってということをしていました。これを良い機会と考えて、日本に帰って、私が経験してきたことを日本で伝えることができればいいなと思いました。

※内容はインタビュー当時(2018年1月10日)のものです

>>【第2回】ヴィッセル神戸・村上範和さんにインタビューはこちら

※ページの内容や掲載者のプロフィールなどは、記事公開当時のものです

この記事をシェア