
明治大学体育会卓球部OBの戸上隼輔選手が、パリ2024オリンピックの卓球日本代表内定選手に選出されました。開催を間近に控えた今の意気込み、学生時代の思い出や、明治大学の先輩である水谷隼さん(政治経済学部卒業)、丹羽孝希さん(政治経済学部卒業)とのエピソードも含め、さまざまなお話を伺いました。
パリ2024オリンピックの「卓球」はテレビ中継が予定されていますので、皆さま温かいご声援のほど、どうぞよろしくお願いいたします!

ライバルの大切さを知った全国中学校体育大会での敗退
――何歳から卓球を始めましたか?
戸上隼輔さん(以下:戸上) 3歳からです。卓球一家に生まれ育ったので、自然な流れでした。5歳の時にはもう「卓球で生きていこう」と思っていました(笑)。そうは言っても子どもですから、卓球より友人という時期もあって、中学は友人と離れたくなくて地元の中学校に入学しました。ただ、中学1年の時に出場した全国中学校体育大会ですぐに敗退してしまって……。そこで「このままでは成長できない!」と本気モードになりました。家族の後押しもあり、中学2年生の時に、卓球の強豪校である山口県の野田学園に編入しました。
――負けた悔しさがバネになったのですか?
戸上 そうですね。おそらく、あれが初めての挫折と呼べる経験でした。しかも全国中学校体育大会で負けたのが、小学生の頃からずっとライバルだった選手でした。その相手に0対3で敗れてしまったわけですから、ショックは大きかったです。ただ、彼が強豪校で日々、練習を頑張っていたことで「自分も頑張ろう!」とやる気に火が点きました。「意味のある負け」があること、そしてライバルの大切さを学んだ瞬間でした。
――強豪校への編入後、どのような変化がありましたか?
戸上 環境が変化したことで卓球への取り組み方が、ガラッと変わりました。強豪校なので当然ですが、練習相手全員が強い。そういう環境の中で切磋琢磨して戦い抜いたという事実が自信につながり、精神的にも強くなることができました。
また、この頃に私が世界ランクを上げられたのは、シンプルに練習量を増やしたからだと感じています。「効率」よりも「量」が大事になる時期が絶対にあります。もちろん大変なのでストレスが溜まりますし、「休みたい」と思うこともしばしばですが、その気持ちを抑えて量をこなしたことに意味があったのだと思います。
水谷さんから教えられたオリンピック初出場の心構え
――パリ2024オリンピックのシングルス代表に選出されましたが、オリンピック出場を意識しはじめたのはいつ頃ですか?
戸上 明確に意識しはじめたのは、全日本卓球選手権大会で優勝した時でした。東京2020オリンピック直後の全日本の大会でしたが、その頃に水谷さん、丹羽さんが続いて国際大会から引退されたので、優勝したという気持ちの高まりもあり、次は自分がオリンピックに出場して結果を出したいと強く思うようになりました。
――水谷さんと丹羽さんは明治大学の先輩でもありますね。
戸上 お二人の活躍を目の前で見ることができた環境は、大きかったです。特に東京2020オリンピックの会場で見た水谷さんは、その他の国際大会とは、また違った顔つきをされていたので、それがとても印象に残っています。「メダルを取る」という強い覚悟を持った表情というのでしょうか。隣にいる僕にまで緊迫感が伝わってきたので、とても刺激になりました。
――刺激をくれる方がそばにいる環境が、いかに大切かがよく分かります。
戸上 そういう意味では「僕は恵まれているな」とよく思います。小さい頃は、兄二人のかっこいい姿を間近で見続けることができましたし、中高時代の部活動でも、大学に入ってからのチームでも、常に覚悟を決めて本気で取り組む人たちがそばにいましたから。それもインターネットの世界ではなく、直接触れ合える距離にいてくれました。憧れの人たちと共に切磋琢磨し合って、自分を成長させることができた環境は本当に貴重でした。
ただ、兄をはじめ家族は、とても応援してくれているのですが、「隼輔は隼輔」と個として僕を尊重してくれているので、卓球においても「こうしなさい」と指示されたことはありません。あったとしても「こういう考え方もあるかもよ?」という程度の、僕の選択肢を増やしてくれるようなアドバイスでした。そのおかげで自分を信じてのびのびと卓球を続けられましたし、卓球をずっと好きでいることができました。
スポーツ強豪校の明治大学だからこそ刺激し合える仲間と出会えた

――大学進学を考える中で、最終的に明治大学を選んだ理由を教えてください。
戸上 環境がとても整っていたというのが一番の理由です。卓球人生を考えた時に、大学の4年間は一番伸びしろが大きい時期だと捉えていたので、その4年間を大切にするなら、卓球が強い明治大学しかないだろうと考えました。
また、東京に出てきたかったということもありました。日本代表の合宿も、東京の赤羽にある味の素ナショナルトレーニングセンターで行われますし、海外遠征の際も羽田や成田から出発することがほとんどでしたので、移動のストレスをなるべく減らすには、東京で暮らした方が良いと判断しました。
実際に入学してみて、同じ明治大学の学生がスポーツの世界で活躍しているのを耳にしたり、目にしたりするのは、良い刺激になりました。強豪校がありがたいのは、強い選手がどんどん入学してきてくれるところです。「追い越されないようにもっと練習を頑張ろう」と気合が入りますから。きっと明治大学のあちこちで同じような切磋琢磨が生まれていると思うと、他の部活動にも親近感が湧いてきます。
――選手としてではなく、学生としては明治大学にどういう印象を持っていますか?
戸上 人が温かいですよね。遠征に出ていて久しぶりに大学に行った時に、「ここまで授業が進んだよ」とさりげなく教えてくれたり、必要な資料を渡してくれたり。授業で答えが分からなくて悩んでいたら、横からそっと教えてもらったこともありました(笑)。誰かを助けたり、支えたりといった行動が、ごく自然にできる人が多いように感じます。
コロナ禍での入学でしたが、部活動は一定の制限はありながらも続いていたので、その点も大丈夫でした。外出などに制限があることに対してのストレスはありましたが、それは他の人も同じだったと思うので、自宅でできることでうまく気分転換をしながら乗り切りました。
――戸上選手の気分転換というと、やはりプロレスですか?
戸上 そうですね(笑)。プロレスからは、いつも勇気と元気をもらっています。あと、選手として参考になる部分もすごく多いです。プロレスは厳密にはスポーツではなくエンターテインメントの部類なのですが、ファンの方に対する感謝の表現など、「選手としての魅せ方」についてはとても勉強になっています。プロレスファンで本当に良かったですね。
――そういえば、棚橋選手と対談をされたのですか?
戸上 そうなんです!卓球の専門誌『卓球王国』さんが新日本プロレスさんに取材するという形で実現したものなのですが、海外ツアーの直前に「対談できるよ」と聞いて、もうテンションが爆上がりでした(笑)!おかげでその大会で良い結果を残すことができました。いろいろと質問させていただいたのですが、その中でも「追う立場から、追われる立場に変わった時」の切り替え方を棚橋選手から伺えたことが大きかったです。今の自分にリンクする部分が多かったので、とても参考になりました。
――その他、練習の合間の気分転換ではどのようなことをしていましたか?
戸上 卓球部のメンバーとは、しょっちゅう遊んでいました。ボーリングをしたり、カラオケをしたり、遊園地に行ったり。夏にはプールにも行きましたね。男ばっかりの大人数でワイワイしたのが、とても楽しかったです。
それに「プロの卓球選手」だけよりも、「大学生」という一面があった方が、親近感を感じてもらえるみたいです。同世代の人に「明治大学に通っているよ」と言うとグッと距離が近くなる感じがありますね。やっぱり僕たち選手は見てもらって、応援してもらってこそですから、「同じ大学の友人が頑張っている」ということを入口に、少しでも卓球に興味を持ってくれる方が増えるなら、その意味でも明治大学に入って良かったです。
選手として、指導者として生涯を卓球と共に歩みたい

――先ほど大学時代は「大きな伸びしろ」とお話しされていましたが、明治大学で過ごした4年間で成長を感じますか?
戸上 入学当初と比べると格段に成長したと思います。テクニック以上に伸びたのが、考え方の部分です。これまでは自分の好きなようにプレーして、負けても「調子が悪かった」で終わらせていたのですが、今はそうではなく、調子に左右されずに勝つスタイルが取れようになってきました。このように考え方を変えられたのも、4年間で海外での試合を通して国際経験を積み、その中で偉大な先輩方と関わってきたからこそだと思います。
――国際経験と言えば英語の勉強をされていると聞きました。
戸上 はい、少し休んでいたのですが、今またオンライン英会話レッスンを再開したところです。イギリス人と日本人のご夫婦に先生をお願いしているのですが、お二人共に元々卓球関係者ということもあって、一般的なコミュニケーションに加えて卓球関係の英会話も教わっています。
――練習が忙しい中で英会話レッスンを続けていくのは大変ですね。
戸上 それが意外にも楽しめていて、全く苦にならないです。勉強は苦手なはずなのですが英語は本当に楽しいと感じていて、むしろ良いリフレッシュになっています。おそらく、英単語を一つひとつ覚えて、使って、使えるようになって成長を感じるという過程がスポーツと少し似ているから、自然と楽しめているのだと思います。
――水谷さん、丹羽さんが引退された今、パリ2024オリンピック出場に向けての意気込みをお聞かせください。
戸上 日本の男子卓球は今、張本選手がトップで世界を相手に頑張っていますが、2番手は誰なんだと言うと、「それは戸上だ」という意識が強いです。団体戦における2番手は勝利を左右する重要な立場なので、「チームを引っ張っている」という気持ちを持って戦っています。それは明治大学として戦っている時も一緒で、自分がエースとして出て、チームを引っ張っていくという意識は変わりません。
――プレッシャーが大きそうですね。
戸上 プレッシャーもありますが、それ以上に楽しんでいます。今は7月のパリ2024オリンピックに向けた調整をしているところですが、プレッシャーが良い意味で作用してくれているようで、「トレーニング以外のこともしっかりしなくては」と張り切っています。ウエートトレーニングにも真剣に取り組んでいますし、栄養士さんをつけていただいて食事にもより一層気を付けるようになりました。
――いよいよオリンピックですね。先輩である水谷さんからは何かアドバイスはいただきましたか?
戸上 「オリンピック初出場の時は自分のプレーができなくて当たり前だ」と教えてくださいました。その言葉に、オリンピックという場が、どれほど緊張感があるものなのかが伝わりましたし、仮に場の雰囲気に圧倒されそうになっても、水谷さんの言葉を思い出すことで冷静になることができます。水谷さんのおかげで心の準備ができました。パリにも来てくださるそうですし、本当に心強い先輩です。
――直近の目標はもちろん金メダルだと思いますが、さらに将来的に、理想とするビジョンはお持ちですか?
戸上 今はもうオリンピックのことで頭がいっぱいで、その先については何も考えられないというのが正直なところです。ただ理想は、はっきりしていて、「できるだけ長く現役選手を続けていくこと」これに尽きます。ただ、一方で指導者という立場にも興味はあります。人に指導することも好きなので、どこかのタイミングで指導者になる道もあるのかなと思っています。特に選手として伸び盛りの中学、高校あたりの選手の成長に携われたら、それはそれでやりがいは大きいだろうなと考えています。どのような立場かは分かりませんが、生涯ずっと卓球に関わっていたいですね。
――確かにプロとしては自分の練習に専念できますが、大学の部活動の中では後輩を指導しなくてはならないですね。
戸上 これに関しては、本当にチャンスをいただいたなと感じています。後輩に指導する中で、自分の頭の中の感覚を言語化する訓練ができましたし、言語化できてようやく自分の身に付いたという面もありました。「何となくできる」では、なぜか急にできなくなる可能性があるということです。反対に後輩から気付かされることも多かったので、指導を通じてまた一歩成長できたなと感じます。
――では、現役の間はどのような選手でありたいと考えていますか?
戸上 プレーヤーとして結果を残すのは当然ですが、それ以外では「家族を大切にできる選手でありたい」と常々思っています。自分が卓球に専念している分、家族と関われる時間が少なくなってしまっているので。本当にいつも全力で応援してくれていますし、パリ2024オリンピックに内定した時なんて、それはもう喜んでくれました。なるべく帰省の機会を増やして、家族に感謝の気持ちを伝えたいです。そしてそんな家族と同じくらい、ファンも大切にできる選手でありたいですね。
――最後に大学の後輩も含めて、スポーツを頑張っている全ての後輩たちに向けて一言メッセージをお願いします。
戸上 スポーツに真剣に打ち込んでいる人であれば、「良い時もあれば、悪い時もある」ことを体で知っていると思います。そしてこの感覚は、ほとんどの人に共通していることを知っておいてほしいです。これを知っていないと、悪い時に「なぜ自分だけ」と落ち込んでしまいますが、「みんな通った道だ」と思えば少し気がラクになりますから。苦しいのは一人だけではありません。落ち込んだ時は抱え込まず、家族や先輩、仲間など信頼している人に相談して、たくさん話を聞いてもらいながら、また「良い時」が訪れるまで待つことも大切だと思います。
何が言いたいかというと、「もっと人に頼ろう」ということです。信頼して話せる人をたくさん見つけられたら、たいていのことはきっと乗り越えられるし、その出会いには勝負以上の価値があると僕は思います。
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