
山口百恵さんの『横須賀ストーリー』『プレイバックPart2』『さよならの向こう側』など、数多くの作曲を手掛けた、宇崎竜童さん。明治大学付属中野中学・高等学校、明治大学法学部を卒業し、「今の僕には、『明治』で培われてきたものが、根っこにある」と語ります。そんな宇崎さんに、学生生活や音楽活動の魅力、妻で作詞家の阿木燿子さんとの出会い、11月30日に開催予定の「お茶の水文化祭」への思い、校友で俳優の高倉健さんとの思い出などについて、たっぷりと語っていただきました。
宇崎竜童さん(1969年法学部卒業)

1946年京都府生まれ。明治大学付属中野中学・高等学校出身。1969年明治大学法学部卒業。
1973年にダウン・タウン・ブギウギ・バンドを結成してデビュー。代表作は『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』。
作曲家としては、妻で作詞家の阿木燿子さんとのコンビで、『横須賀ストーリー』『プレイバックPart2』などの数多くのヒット曲を手掛けて、山口百恵さんの黄金時代を築く。その他多数のアーティストにも楽曲を提供。
竜童組、宇崎竜童&RUコネクションwith井上堯之などのバンドの他、ソロとしても活動。
映画・舞台音楽の制作、俳優、映画監督など幅広く活動。
”母校の町への恩返し”と“お茶の水の町おこし”をコンセプトに、宇崎さんが2007年から関係者と協力して開催してきた音楽イベント「お茶の水JAZZ祭」を、世界へ音楽と文化を発信する「お茶の水文化祭」として、2025年11月30日に名称変更後、初開催する。
明治大学法学部に入学し、軽音楽クラブへ
――明治大学に進学した理由を教えてください。
宇崎竜童さん(以下:宇崎) 明治大学付属中野中学・高等学校(※1)でしたので、推薦で明治大学法学部に入学しました。
――明治大学では、どのような学生生活を送りましたか?
宇崎 一応、法学部法律学科におりましたので、法律を学んでいました。でも、僕は明治大学で何を学んだかと言ったら、「音楽の在り方を学んだ」というのが正直な話ですね。軽音楽クラブ(※2)に在籍しておりましたので、そこで初めてジャズを演奏するということを学びました。「どうしたら、ジャズっぽくなるのか」「アドリブをどうやったら、自分の『個性』を表現できるのか」とか、そういうことを学んで一日を過ごしていましたから。それが、毎日365日でした。
※1 明治大学付属中野中学・高等学校:明治大学付属校の一つ。東京都中野区に所在する中・高一貫の男子校。宇崎さんは、在学中ブラスバンド部に在籍していた
※2 軽音楽クラブ:大学公認の文化芸術系サークル。フルバンド、モダンジャズ、ハワイアンなどのジャンルに分かれており、宇崎さんはデキシーランドジャズに所属していた
軽音楽クラブの演奏旅行 福山会場にて(大学1年次)学生運動の時代
――入学当時の明治大学について教えてください。
宇崎 明治大学に入学することが決まった時に母親が、「あなた、学生運動だけはしないでね」って僕に言ったんです。当時の僕はとんちんかんで、学生運動のことも何も知らなかったので、「いや、僕は運動嫌いだから」って、母に言った覚えがあります……。
左から:小学生時代の宇崎さんとお母さま大学3年次の頃、「一緒に行こうよ」って同級生が誘ってきたんですけど、忙しくてそれどころではなくて。お稽古しないと先輩に叱られるので、もうとにかく毎日大学には来るけれど、軽音楽クラブの部室に直行でした。年に1回は必ず発表会があったので、記念館講堂で毎日稽古をしていましたね。だから、学生運動は誘われても、全部断っておりました。
当時の駿河台キャンパス 明治大学記念館(1965年卒業アルバムより)作詞家の妻、阿木燿子さんとの出会い
――作詞家である奥さまの阿木燿子さん(※3)(2008年文学部特別卒業認定)との出会いについて、お聞かせください。
宇崎 入学して和泉キャンパスに行くと、中学・高校の時の先輩たちが、軽音楽クラブをやっていたので、もう入学式の次の日くらいに「軽音楽クラブに入れ」と先輩につかまって、何だか分からないうちに入ってしまったんですよね。トランペットが吹けたということもあって。
そして、入部したその日から、新入生を勧誘してくるようにと言われたので、校門の前に立って、新入生に誰でも構わず声を掛けました。あの頃は、女子学生がすごく少ない時代だったんですけど、軽音楽クラブには「女子ハワイアン」もありました。そこに入ってもらおうと思って、女の子が来たので声を掛けたのが、阿木燿子。その時、「ああ、嫁が来た」と思いました。
――学生時代の出会いから、宇崎さんが作曲、阿木さんが作詞のコンビで数多くの楽曲をヒットさせるとともに、山口百恵さんの全盛期を支えました。公私ともに素晴らしいパートナーでいらっしゃいますが、円満であり続ける秘訣をお聞かせください。
宇崎 これはね、よく聞かれることですが、秘訣は本人たちも分かっていないと思いますね。ただ、根底にあるのは、お互いに縁を感じているかどうか。そして、これは60年近く付き合ってきて今改めて思うことですが、「この人とは今世で初めて会った人じゃないな」と。
前世も、そのまた前々世も、知り合いだったのだと思います。もしかしたら恋人同士だったかもしれないし、上下関係だったかもしれない。何度も出会いを重ねてきた魂が、今世で初めて添い遂げる関係になれた。こんなに幸せなことはありません。
私が作曲家になり、彼女が作詞家になったのも、お互いが望んだわけではないのです。私が彼女にお願いして、詞を書いてもらったことが、作詞家になったきっかけなので。
彼女は今でも「作詞はつらい。あなたのために食事を作っている時が、一番幸せ」と言いますから。そんな女性を妻にできたのは、私の性格とか人間性とか、そういう現世的なものではなく、縁という目に見えない絆のおかげ。お互いの魂が毎日それを確認しながら、「幸せだね」と言いながら生きているからだと思います。
※3 阿木燿子さん:(2008年文学部特別卒業認定。2006年紫綬褒章、2008年明治大学特別功労賞、2018年旭日小綬章を受賞)作詞家、プロデューサー。明治大学文学部史学地理学科に入学して宇崎さんと出会い、1971年に結婚。宇崎さんと共に山口百恵さんの楽曲の作詞・作曲を手掛ける
左から:宇崎さん、阿木さん(共に大学2年次)バンド結成
――バンドを結成したきっかけを教えてください。
宇崎 当時、日仏会館(※4)がお茶の水にあったのですが、そこでフォークフェスティバルをやろうということになりました。片方で、ジャズをクラブで活動していたのですが、作った歌を発表するために、バンドを結成しました。
それで、あちこちの大学に声を掛けて、「こういうイベントをやるので出演してほしい」と依頼をして。他大学のフォークグループは、ほぼみんな真面目なんですけど、僕らは真面目ではなかったので、そのバンドの名前も「へんだろうず」っていう名前をつけて、コミックバンドみたいなことをやっていました。こうして、何か笑いをとったり、コントみたいなこともやったりしながら、自分たちのオリジナル曲を人に聴いてもらうという活動をしていました。
ドラマーが、「金だらい」みたいものを持っていて、何かくだらないこと言うと後ろから「ポン」と頭をたたいてとか。全然ウケてはいないけど、何でしょうかね。何か生真面目に、真面目な歌を歌にして。そういうのが、”はやり”でしたね。
きれいな歌とか真面目なメッセージソングなどが、はやっていた時代なので、ちょっとそこを曲げてみて、見に来た人たちがどこかで笑えるようなところがないと、イベントとしてあまり成功してないのかなって、思っていました。
※4 日仏会館:日仏文化・学術の交流・振興を目的とした公益財団法人。1995年までお茶の水にあり、学生がさまざまなイベントでホールを利用した
フォーク・ロック・グループ「へんだろうず」結成時の宇崎さん(1966年 日仏会館にて)就職
――学生時代には、就職活動をされましたか?
宇崎 なぜ、明治大学付属中野中学・高等学校に僕を入れたのか、両親の気持ちとしては、「真面目な普通のサラリーマンになってほしい。だから、ちゃんと真面目に中学・高校を卒業すれば、明治大学に入れるように」という思いがあったのでしょう。
その頃はね。一応明治大学を卒業できれば、「まあ、就職は何とかなるだろう」というような風潮があったので。僕らの軽音楽クラブの先輩は、結構みんな良いところに就職してるんですよ。なので、「あの先輩たちが、そういうところに入れるんだから、僕も就職できるだろう」と。まあ、簡単に言えば高をくくっていたのでしょうね。
それで、受けた企業から即日内定を頂いたものですから、「僕はたいしたものだな」と思ったんですけど。入社したら、全然向いていなくて……。それで、1カ月で辞めて、フラフラしていたんですよ。
音楽業界へ
音楽出版の仕事をしながら、作曲家を目指す
――退職後、どのようにして音楽への道に進まれたのですか?
宇崎 義理の兄がプロダクションの社長だったので、「うちのプロダクションで新しく音楽出版を作るから、入らないか?」と声を掛けてくれたんです。僕は、明治大学法学部を卒業しているから、著作権とか出版権などの契約関係にも詳しいだろうし、音楽もやってきて大学卒業するまでに200~300曲を作曲しているから、ピッタリだと思うと言われたことがきっかけで、音楽業界へ進むことになりました。
「音楽出版の仕事をスタートとして、将来は作曲家になりたいな」という希望を持っていたので、仕事とは別に、事あるごとに「一日に1曲ぐらいは作曲しなきゃダメだよな」と自分で勝手に思って、オリジナル曲をいくつも作っていました。

「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」でデビュー。代表曲は『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』
――デビューまでの経緯を教えてください。
宇崎 そのオリジナル曲を聴いた別の音楽出版のディレクターから、「あなたが歌わないと、その歌は生きないんじゃないか」って言われて、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド(※5)」を作り、そこのリーダーになりました。3枚目のシングルが、『スモーキン’ブギ』で、そこで少しだけ若者たちに支持されて、その後に『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ(※6)』を出した瞬間に、全国的に知られるようなバンドになりました。
※5 ダウン・タウン・ブギウギ・バンド:1973年、宇崎竜童さんを中心として結成。”日本語ロックブーム”を決定付けた存在として、ロックバンドとして初めて「NHK紅白歌合戦」に出演
※6 『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』:1975年リリース。オリコン年間ヒットチャート5位。日本レコード大賞企画賞受賞。妻の阿木燿子さんの作詞家デビューでもある。楽曲中の歌詞「あんた、あの娘のなんなのさ」は、1975年の流行語にもなった
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド『脱・どん底』(1974年)
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド『身も心も』(1977年)宇崎さん作曲、阿木さん作詞のコンビで数多くの楽曲がヒット。山口百恵さんの全盛期を支える
宇崎 音楽家になって50年以上経ってるわけですけど、山口百恵さん(※7)などのアイドルに作曲をして作曲賞をいただいたり、グループにも曲を書いたりして、ずっと作曲をしてきました。人生100年時代ですからね。だから、「あと、20年書けるな!」と思ってるわけ(笑)。「良い曲を書きたい!」と思っているんです。
※7 山口百恵さんの代表作(作曲|宇崎竜童・作詞|阿木燿子):1976年『横須賀ストーリー』、1977年『イミテイション・ゴールド』、1978年『プレイバックPart2』、1979年『しなやかに歌って』、1980年『さよならの向こう側』など数多くの楽曲をヒットさせ、彼女の全盛期を支えた
「お茶の水文化祭」への思い。「思いつき」から「ひらめき」へ
11月30日「お茶の水文化祭」開催に向けて。「明大町づくり道場」の学生への期待
――宇崎さんが総合プロデューサーを務める「お茶の水文化祭(旧:お茶の水JAZZ祭)」が11月30日(日)に開催予定です。明治大学を通して長年、地域との連携活動をされてきた中で、大切にされていることは何ですか?
宇崎 元々、これまでの「お茶の水JAZZ祭」は、2007年に「思いつき」からスタートしたのですが、コロナ禍を挟んで今まで続いたということは、あの時の思いつきが、今思うと「ひらめき」に変わってきたのだと感じています。2025年度は、「お茶の水文化祭」に名称変更して、初めて11月30日に開催する予定です。
「明大町づくり道場」に集まってくれた学生さんの声を僕がキャッチして、地域の町おこし行事の中に学生を組み込んでいくことで、「学生には、大学の授業だけでは学べないことを、地域の方々から吸収して経験してほしい」という思いがあります。
大学の外に一歩出たお茶の水や神田神保町は、古書店、新書店、大学、楽器店、スポーツ店、病院などが多く集まる特殊な地域です。ここで商売を営む地域の方たちの考え方や仕事の仕方に、学生たちが直接触れるという経験が、卒業後の彼らの人生に何か良い影響を与えるのではないか。そうあってほしいという願いがあります。
――これまでの「お茶の水JAZZ祭」から、「お茶の水文化祭」へとリニューアルされた背景には、学生たちへのこうした思いがあったのですね。今後はどのように関わっていくご予定ですか?
宇崎 これからは、若者の発想や声を取り入れたい。僕らのお手伝いではなく、学生が「お茶の水文化祭」をクリエイトする側に立ってほしいです。「クリエイトとは何か」「一つのことを企画するということはどういうことなのか」、その全てを学生たちに経験してほしい。今年の「お茶の水文化祭」が終わったら、第2回に向けて、「君たちの意見や発想が欲しい」と本格的に伝えていくつもりです。
「明大町づくり道場」の2025年度キックオフミーティングに参加した関係者ら(前列左から4人目が宇崎さん)「今の僕には、『明治』で培われたものが、根っこにある」
――明治大学を卒業して良かったと思えるのは、どのような時ですか?
宇崎 明治大学付属中野中学・高等学校の校訓・理念として、「質実・剛毅(※8)」があるんですね。先輩・後輩がはっきりしていた時代なので、当時先輩たちにあれこれ叱られながらやってきたことが、ものすごく全部身に付いているのね。礼節みたいなものまで、学んでいるわけです。だから、すごく感謝しています。
それがあったからこそ、中学・高校・大学と明治に通った価値がある。「今の僕には、『明治』で培われてきたものが、根っこにある」っていうことですよね。
※8 質実・剛毅:明治大学付属中野中学・高等学校の校訓・理念(情緒)。校訓の「質実剛毅・協同自治」を柱として、合い言葉は「みんなで仲良く、正直に、真面目に、精一杯努力しよう」
夏休みに友人宅にて。高等学校3年次の宇崎さんメッセージ
明治大学創立150周年に向けてのメッセージ
――明治大学は、2031年に創立150周年を迎えます。150周年に向けて、メッセージをお願いします。
宇崎 あと6年ですか。もうすぐじゃないですか。僕は、100歳まで生きるつもりですから(笑)。150周年、素晴らしいことですね。拍手喝采です。
僕が思うのはね、「質実剛健」の精神を大切にしてほしいと思っています。明治大学は人気があるとか、志願者数が多いだとか、そういう世間からの評判だけでなく、入学してからの4年間で、学生たちが何を学んでいくのかが大切。大学では、専門知識を教えるだけでなく、「質実剛健」の精神を胸に刻んだ校友(卒業生)を、この4年間でつくり上げて、世の中に輩出してほしいです。
今の世の中は、いいかげんな人が目立っているように感じます。そうではなく、きちんとした誠実で内面的な強さと堅実さを持った企業のトップや政治家を、この明治大学から輩出してほしいと願っています。

校友・俳優|高倉健さんとの思い出
明治大学の校友で、俳優の高倉健さん(※9)(1954年商学部卒業)がいらっしゃるじゃないですか。健さんと初めてお仕事した時に、「宇崎さん 明治大学ですよね」って声を掛けていただいたのが、最初の出会いの言葉です。
それがどうしたって話ですが、健さんにとっては同じ明治大学を卒業した僕を、ものすごく愛しく思ってくれたんですよ。それで、いろいろなことを教えてくださいました。あのキャラクターですから、健さんこそ、「質実剛健」ですよ。男らしさとは何なのかということを、あんなにトップスターなのに最後まで守り通した方です。その背中を見て学んできたのが、僕らなんですよね。
※9 高倉健さん(1931 – 2014):1954年商学部卒業。1998年紫綬褒章、2006年文化功労者、2013年文化勲章を受章。日本を代表する映画スターであり、ストイックに役に向き合うその姿勢は、多くの映画人の憧れの存在だった
高倉健さん『海へ See You』 (1988年)(写真提供:高倉プロモーション)※ 写真の無断複写は禁止です
明治大学は、音楽家としての基礎をつくり、人生の伴侶を見つけた場所
――最後に、宇崎さんにとって、明治大学はどのような場所でしたか?
宇崎 明治大学の4年間で音楽家としての基礎を作り、人生の伴侶を入学してすぐに見つけた場所です。これは、すごいことだなと思っています。
――大変素晴らしいお話を、伺うことができました。本日は、ありがとうございました。

「お茶の水文化祭」開催概要
| 日時 | 2025年11月30日(日) 開演 16:00予定 |
| 会場 | 明治大学駿河台キャンパス アカデミーコモン3F アカデミーホール 駿河台キャンパスのご案内は、こちら。 |
| 座席 | S席(1階席)8,000円、 A席(2階席)6,000円 ※売上の一部はWFP (World Food Programme:国連世界食糧計画) 等に寄付がなされます |
| チケット予約 | チケット一般発売:9月27日(土)12:00 ~ 11月26日(水)23:59 チケットの予約は、こちら。 |
| 主催 | お茶の水JAZZ祭実行委員会 |
| 共催 | 明治大学社会連携機構 |
| 運営協力 | 明大町づくり道場、株式会社明大サポート |
| 関連サイト |
校友山脈 明治大学140→150周年 150人の卒業生たち 公開一覧
このインタビューは、「校友山脈 明治大学140→150周年 150人の卒業生たち」【監督 守屋健太郎氏(1992年法学部卒)】で実施しました。インタビュー映像は、明治大学公式YouTubeからご覧いただけます。
【校友山脈|宇崎竜童氏】 明治大学140→150周年 150人の卒業生たち
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