
明治大学での自由な学生生活を通して、さまざまな価値観に触れて視野が一気に広がり、ホテルで働くために大切なコミュニケーション力が磨かれた――。日本屈指の名門ホテルである㈱帝国ホテルで代表取締役 社長執行役員を務める風間さんは、ご自身のオープンで社交的な性格を生かせる職業はホテル業界だと考え、学生時代にホテル経営を学ぶためにホテル実習を経験。当時から「最終的にはホテル経営者になりたい」という思いを抱き、戦略的な就職活動を経て帝国ホテルに就職し、2025年に代表取締役 社長執行役員に就任されました。そんな風間社長に、学生生活や帝国ホテルでのキャリア、2026年3月に開業予定の「帝国ホテル京都」のこだわり、2024年11月15日付で明治大学が取得した「山の上ホテル」への思いなど、たっぷりと語っていただきました。
風間 淳さん(1986年商学部卒業)

1962年 東京都生まれ。1986年明治大学商学部卒業。
1986年 株式会社帝国ホテル入社
2011年 ホテル事業統括部長
2015年 取締役執行役員企画部長
2022年 代表取締役常務
2023年 代表取締役専務
2025年 代表取締役 社長執行役員
明治大学商学部に入学し、課外活動でコミュニケーション力を磨く
ホテル経営もビジネスの一つと考えて、商学部に進学
――明治大学商学部に進学した理由を教えてください。
風間淳さん(以下:風間) 高校生の頃から、「将来は、観光やサービス系の、特にホテルを中心に携わりたい。ホテル経営って、面白いだろうな」と思っていました。それでも、観光を勉強してホテル経営に進むのではなく、ホテル経営もビジネスの一つだと考え、「ビジネスを学ぶには、商学部や経営学部、政治経済学部などの社会科学系に進むのが良いだろう」と思っていたので、明治大学商学部商学科に進学しました。基本的には、ビジネスの実務に関連した講義が多かったです。
――ホテルマンになりたいと思ったきっかけは?
風間 私自身は、オープンな性格だと認識しているので、「自分のパーソナリティーを生かせる業界に行きたい」と考えたことが、スタートラインです。
ホテル経営を実践的に学ぶ
――ホテル経営については、どのように学びましたか?
風間 大学3年次の時に、他大学のホテル観光講座を受講しました。実学中心の講座で、実習として夏休みを利用し、神奈川県箱根町の宮ノ下にある「富士屋ホテル(※1)」で、ベルマンとして働きました。実際にホテルの現場に立って痛感したのは、「この経験を学生時代に知っておいて良かった」ということです。現場のリアルを知らないでホテル業界に飛び込むことは、自分にとって考えられないことだったと今振り返っても強く感じます。
※1 富士屋ホテル:1878年創業。神奈川県箱根町宮ノ下温泉にある老舗ホテル。チャールズ・チャップリン、ジョン・レノン他、多くの著名人に愛用されている
学生時代に実習として働いた「富士屋ホテル」での一枚(右が風間さん|1984年)学生生活
――課外活動について、教えてください。
風間 サークル活動にはほとんど参加せず、アルバイトに明け暮れる毎日でした。1年次は洋服店で働き、その後はずっと飲食店でコックとして厨房に立ち、学生ながら調理師免許も取得したほどです。その結果、稼ぎ過ぎて親の扶養から外れてしまい、親父からめちゃくちゃ怒られましたね(笑)。
飲食店でのアルバイト――学生時代から、社会人の方と関わる機会が多かったのでしょうか?
風間 当時の私は、少し生意気な学生だったのかもしれません。行きつけの飲み屋に行って、社会人の大先輩の方々とお話をする機会があっても、言われたことをそのまま、うのみにはしませんでした。「それ、本当ですか?」「自分を飾って話していませんか?」と、あえて議論を吹っかけるような問いかけを繰り返していたんです。当時は、「学生相手だからと、きれいな話だけでまとめられたくない。相手の飾らない本音を引き出したい」という一心でした。
しかし、そんな物おじしない姿勢を面白がってくれる大人たちもいました。常連客の中に生命保険や損害保険関係の方などもいたのですが、「あなた面白いから、うちの就職試験を受けに来なよ」と誘っていただくこともありました。当時は、ホテル業界一本に絞っていましたが、その誘いに応じて試験を受けに行ったのも、今では懐かしい思い出です。
自己分析
――さまざまな社会人の方々との関わりを通して、コミュニケーション力を磨かれたのですね。
風間 私は昔から、良くも悪くも物おじしない性格です。時には、「生意気だ」「礼儀がなっていない」とお叱りを受けることもあり、そこは自分の課題だと自覚しています。ですが、それは常に本質を突き詰めたいという思いの裏返しでもあるんです。
最近知った「16タイプ性格診断(※2)」によると、私の性格は、「討論者」だそうです。いろいろな方とお話してアイデアを出したり、問題提起をしたりすることが好きであると。既存のやり方に、「本当にこれでいいの?何か他にアイデアないの?」「本当に今のままで大丈夫?」とか、議論を深めることが何より好きなんです。
学生時代から、こうした社交性を発揮してきましたが、それを生かして向いている職業って何だろうと探していた末に行き着いたのが、原点であるホテルマンでした。「サービス業を中心に、自分が一番最初から目指していたホテルマンになりたい」と思いました。
※2 「16タイプ性格診断」:個人の性格や特性を4つの性格指標で分析し、16タイプに分類するもの
新入社員の頃の一枚(上高地|1986年)学生時代に学んだこと
――明治大学を卒業して良かったと思えるのは、どのような時ですか?
風間 明治大学は、特に地方出身の学生が多かったです。一人暮らしをしている人と、私のように実家暮らしの人間とでは、考え方や生活感、生活に対する心構えも全く違っていました。私は小・中・高とずっと目黒区内で過ごしてきたので、それまでは比較的狭い人間関係の中にいたんです。でも、大学で多様な背景を持つ仲間と出会い、「そんな考え方があるのか」と日々刺激を受けたことで、一気に視野が広がりました。
学生時代の北海道旅行での一枚風間 友人とは、六大学野球やラグビーなどのスポーツ観戦、そして必死の試験勉強。そんな時間を共有するうちに、気付けば私も「明大生」らしくなり、深い愛校心を抱くようになっていました。学生時代にさまざまな人たちとの出会いを通して、コミュニケーション力がさらに磨かれました。
今、自分の目の前にいる方が、どういうニーズを持ち、どういう風に考えているのかということを推察する時も、「それに合わせていくのか」「逆に合わせないでいくのか」という判断を、常にその場その場でしています。それは、ビジネスだけに留まらず、あらゆる人間関係において、私が大切にしている指針です。
こうしたコミュニケーション力を最も際立たせた商売が「ホテル」なので、その辺りを学生時代のモラトリアムの時期に、いろいろな場面で学ばせていただいたことが、今の私の土台となっています。
卒業式に友人との一枚➀(右が風間さん)
卒業式に友人との一枚➁(左から3人目が風間さん)就職活動では、戦略的にホテルを研究
帝国ホテル(※3)を選んだ理由
――ホテルの中で、帝国ホテルを選んだ理由を教えてください。
風間 そもそも当時、ホテル業界は大卒の就職先としてメジャーな存在ではありませんでした。採用人数も極めて少なく、どこのホテルも「将来の幹部候補」としての採用が一般的だったと記憶しています。そうした狭き門であることを十分に理解した上で、この世界に飛び込みました。
帝国ホテルでは、当時から「総合職」と「専門職」の採用コースを明確に分けていました。入社後の研修やキャリアパスにおいても、それぞれのコースに応じた育成方法を取っていることも、よく分かっていましたので、自分の将来像を具体的にイメージできたことが、大きな期待感につながっていましたね。
※3 帝国ホテル:東京・日比谷に位置する日本屈指の名門ホテル。1890年、日本の迎賓館としての役割を担うため、外務卿・井上馨の命により、渋沢栄一や大倉喜八郎などの当時の財界人により設立
帝国ホテル 初代本館――学生の頃から、既に研修や人材育成という視点をお持ちだったのですね。
風間 ホテルに関しては、いろいろな実情を分かっていたつもりでしたので、当時はかなり「頭でっかち」な学生だったと思います。当時は、ホテルを利用する立場のホテルマニア的な学生がたくさんいて、各大学に「ホテル研究会」などがありました。ただ、彼らの多くはあくまで「利用客」としての視点。私は客としてホテルを楽しみたかったわけではなく、現場の厳しさは百も承知でした。
もちろん、ホテルの下積みについては一通り勉強したかったのですが、それ以上に、当時から「最終的には、ホテルの経営を担いたい」という明確な目標を持っていました。そのため、自分が一番思い描いていたキャリアコースに近かったホテルが、帝国ホテルだったということは、揺るぎない事実です。
――就職活動の時点でそこまで見据えた上で、本当に帝国ホテルの経営者になったのですね。
風間 そうですね。普通、ホテルマンを志す若者であれば、もっと素直に「いつかは総支配人になりたい」「総支配人になることが、ホテルマンとしてのゴールではないか」と思う人が多いでしょう。
しかし、私はそれがホテル経営とは、また違うものだということは、学生時代に実習も含めて学んでいました。「ホテルの『運営』と『経営』は似て非なるものである」ということを、理解していたつもりです。
帝国ホテル 2代目本館(通称|ライト館)帝国ホテルのほぼ全ての部署であらゆる業務を経験し、社長に就任
さまざまな現場でホテルを知り尽くす
――帝国ホテルでは、さまざまな部署をご経験されたと伺いました。
風間 はい。当時から帝国ホテルは、育成計画がしっかりしていたので、最初の1年間は、客室やレストラン、調理場など、あらゆる現場を経験しました。自分で言うのもなんですが、私はかなり器用にこなせたので、本当にいろいろなことをしましたよ。
中でも印象深いのは、当時のメインダイニング「フォンテンブロー」というレストランで、全ての食材を一括して仕入れ、仕込み、お客さまに提供するという昔ながらのスタイルでした。既製品ではなく、本当に基礎から作るんです。そこで2カ月間、ソーシエ(※4)やガルド・マンジェ(※5)、アントルメティエ(※6)といったさまざまな部門を1週間ずつ経験しました。実際に手を動かして学んだことは、本当に貴重な経験でしたね。
調理場での研修を終えた後は、フロントに1年半、続いて経理部に3年半勤務しました。経理では資金、財務部門なども全て担当して試算表作成まで行い、一通り経験しました。その次は、人事部で合計12~13年ほど勤務しました。その大部分は労務担当として、労働組合との交渉や労働協約の作成、社員の勤怠管理を行いました。
振り返れば、経理で「お金と数字」を、人事で「働く人々のマインドや感情」を徹底的に学んだことが、私にとって計り知れない財産になりました。企業の数字と働く人の考え方を勉強することは、企業を動かしていきたいと思うなら必須ではないかと思うので、今の若い世代にも、ぜひ経験してもらいたいですね。
※4 ソーシエ:料理の味を左右するソース作りを担当する部門
※5 ガルド・マンジェ:サラダや冷製オードブルの調理の他、冷蔵庫の食材管理を担当する部門
※6 アントルメティエ:前菜の調理の他、スープ、野菜、パスタなどを調理する部門
――多くの部署で、あらゆる業務を経験されたのですね。
風間 そうですね。その後は、40歳前後で営業部に行きました。営業部には、法人営業部と、一般の宴会や婚礼を担当する部門があり、私が主に携わったのは婚礼の商品開発です。特に、新婦さまの繊細な思いやニーズをいかに形にし、商品として世に送り出すか。試行錯誤を繰り返す日々でした。営業部では10年以上勤務したので、宴会販売については、本当に基礎から学びましたね。
その後は、ホテル事業統括部という部署で部長を拝命しました。この部署は、ホテル事業を統括し、全体を俯瞰して束ねていく部署でしたので、広報なども担当しました。
こうして自分のキャリアパスを振り返って見ると、非常にバランスが取れたものだったなと感じます。ホテルの管理部門を3分の2、残りの3分の1で現場の実務として全体を俯瞰して束ねる経験をさせていただきました。
――まさに、「ホテルを知り尽くした」という表現がぴったりですね。
風間 その後は、企画部でコーポレート戦略の立案や再開発プロジェクトを経験しましたので、経験していない部署はほとんどありませんね。強いて言えば、購買部門だけは経験しませんでした。さまざまな部署を経験しているからこそ、現場の細部から経営の全体像まで、多角的な視点で物事を捉えられるようになりました。変革の時期にある今の帝国ホテルにおいて、私が社長として、かじ取りを担うことになったのは、良いタイミングだったのではないかと自負しています。
帝国ホテル東京の現本館(3代目)の外観(1970年)変化を求められる時代に向けて、社長に就任
風間 ある記者の方からは、「風間さんは、東京の総支配人を経験していない初めてのプロパー(※7)社長ですね」と指摘されたことがあります。確かに、これまでの歴代社長は、全員が現場の最高責任者である総支配人を経験された方でした。おそらく、その時代時代で社長のニーズがあるので、かつては東京の総支配人を経験していることが、社長のニーズだったのでしょう。
しかし、現在は、再開発や帝国ホテル京都を2026年3月からオープンすることなども含めてですが、「変化を求められている時代」なのだと感じています。かつては現場を束ねる統率力が最優先だったのでしょうが、今はホテル経営そのものの在り方が問われる変革の時代。このような変化の時期で、対応するニーズがあったからこそ、私の多角的なバックグランドが必要とされ、社長に就任できたのだと感じています。
※7 プロパー社員:新卒入社の社員。生え抜き社員
帝国ホテル東京のロビー帝国ホテル京都の強みとこだわり。「サービスは京都ナンバーワンを目指す」
帝国ホテル京都(※8)が2026年3月オープン。開業への思い
――2026年3月に帝国ホテル京都が開業予定ですが、開業に向けての思いを教えてください。
風間 新規ホテルの開業は久しぶりのことなので、京都に開業できるということは、本当にうれしいですし、京都の町に貢献できるということも、同時にうれしいですね。現在の中長期経営計画の中でも、新規開業は京都と、東京の再開発街区内にスモールラグジュアリーを建てるという、二つだけなんです。まさに、社運を賭けたプロジェクトです。私は開発担当として、納得のいく場所を求めて、京都中を文字通り探し回りました。いよいよ形になるという今の状況には、言葉にできないほど感慨深いものがありますね。
――特に印象深い点などお聞かせいただけますでしょうか。
風間 京都進出への道のりは、平坦ではありませんでした。京都の価値が世界に非常に注目され始め、インバウンドの波が押し寄せる直前のタイミングで、地価も上がりすぎてしまって、「もう京都に帝国ホテルを出すのは不可能ではないか」と思いました。ちょっと無理かもしれないと、当時は本当にいろいろな所を探し回り、現在の場所にたどり着いたのです。
――京都には既存のさまざまなホテルや旅館もありますが、帝国ホテル京都の強みやこだわりについて、教えてください。
風間 こだわりの部分としては、「サービス」ですね。サービスが悪ければホテルとしては成立しないと思っていますので、まずサービスに力を入れるということです。少なくともサービスについては、京都でナンバーワンのホテルになりたいです。開業直後からサービスクオリティを担保するために、既に大部分の京都担当スタッフを1年前から採用して、トレーニングを重ねています。
ホテルによっては、開業の1カ月前とか、2~3カ月前に採用するところが多いのではないでしょうか。帝国ホテルのように、プロパーで1年前から採用して、それも新卒で採用するホテルは少ないと思います。
※8 帝国ホテル京都:京都・祇園の中心にある国の登録有形文化財である「弥栄会館」の歴史的価値の高い外観を守りつつ、現行の建築基準法にのっとった構造で再建し、2026年3月5日に開業予定。弥栄会館は、1936年に芸妓組合やお茶屋組合の寄付によって竣工され、地域のランドマークとして親しまれてきた
「帝国ホテル 京都」(提供:帝国ホテル)明治大学創立150周年に向けてのメッセージ
大学の魅力が、大学としての価値を高める
――明治大学は、2031年に150周年を迎えます。創立150周年に向けて、メッセージをお願いします。
風間 校友としても、ビジネスマンの視点としても、明治大学が、大学としての価値を常に高めていこうと努力している姿勢には、非常に感銘を受けています。やはり、常にその大学に魅力がないと、学生は集まってこないと思います。特に、これからの少子化社会では、学生数が減少し、学生の取り合いになるでしょう。
結局のところ、大学そのものに魅力がなければ、学生は集まってきません。特にこれからの少子化社会では、学生の「奪い合い」になるのは明白です。明治大学は、都心へのキャンパス集約といった幸運な側面もありましたが、その好条件を最大限に生かせるかどうかは、大学側の「手腕」に他なりません。だからこそ、今のようなバランス感覚は、今後も失わないでほしいですね。
「山の上ホテル」への思い
風間 あともう一つ。このたび、明治大学が「山の上ホテル(※9)」を取得しましたよね。私たちホテル業界としては、あんなに拍手喝采なこと、ないですよ。素晴らしい!
「山の上ホテル」は、すごく由緒正しいホテルなんです。私がホテルを目指していた頃、「山の上ホテル」に入ることもイメージの中にありましたから。そのくらい由緒正しい「山の上ホテル」を、明治大学に残してもらえたことは、すごくうれしいです。
今後、学部や学科の新設はとても難しいとは思いますが、可能であれば「ホテル経営学科」をつくってほしいです。そして、ホテル経営学科の実習場所として、「山の上ホテル」が存在できたら良いなと思います。ホテルとホテル経営学科を持っている大学は、日本にはありません。アメリカだって、数えるほどしかないですよ。
本来、実習を通じて現場の空気に触れることなく、大卒のホテルマンになるなんてあり得ないことだと、私は思っています。ホテル業界を志すなら、ぜひ学生時代にホテル実習を経験してもらいたい。一度は、現場の泥臭さを知った上で、「それでも自分はホテル経営に携わりたいんだ」という覚悟を持って、門をたたいてほしいのです。
ホテルで働くことは、決して華やかなだけではありません。すごく大変なことも多いですが、ホテルの売り物とは「人そのもの」じゃないですか。その売り物の本質を理解せず、経営を語ることはできないと思うのです。
※9 山の上ホテル:1937年に米国の建築家であるウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏が設計し、本学の校友であり本学専門部女子部校舎建設も支援した佐藤慶太郎氏(1890年卒)が「佐藤新興生活館」として設立。出版社が多い神田神保町に近いので、「文化人のホテル」として川端康成、三島由紀夫、池波正太郎などの作家が執筆活動をしたホテルとしても知られている
山の上ホテルの外観明治大学は、母のような存在
――最後に、風間さんにとって、明治大学はどのような場所でしたか?
風間 明治大学は、「自由」でした。勉強して、資格も取って、これもやって、こうしなければいけないというようなことは、一つもなかったので。それで、明治大学を卒業させてもらったということは、自分にとってはありがたいことでした。明治大学は、自分を社会にきっちりと出してくれた、人で言えば恩人ですし、私を生み落として育ててくれた母のような存在ですね。ものすごく感謝しています。
――本日は、大変貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。

校友山脈 明治大学140→150周年 150人の卒業生たち 公開一覧
このインタビューは、「校友山脈 明治大学140→150周年 150人の卒業生たち」【監督 守屋健太郎氏(1992年法学部卒)】で実施しました。インタビュー映像は、明治大学公式YouTubeからご覧いただけます。
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